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さいわいは心よりいでて我をかざる - Fortune comes from one’s heart and makes one worthy of respect.

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本文 わざわいは口より出でて 身をやぶる・ さいわいは 心よりいでて我をかざる わざわいは くちより いでで みを やぶる・ さいわいは こころより いでて われを かざる 十字御書 むしもちごしょ (1492頁) 弘安4年1月 (1281年) 通解(意訳) 災事は口から出て、災難を呼び寄せて、自分自身の身を滅ぼす元となる。 幸福とは誠意と真心からの振舞いから、幸福を呼び寄せて、どのような宝石よりも自分自身を輝かせる事ができるのである。  英語で御書 Gosho in English Misfortune comes from one’s mouth and ruins one, but fortune comes from one’s heart and makes one worthy of respect. " New Year’s Gosho "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1137 in January, 1281. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese わざわいは口より出でて 身をやぶる・ さいわいは 心よりいでて我をかざる WAZAWAI WA KUCHI YORI IDETE MI WO YABURU・ SAIWAI WA KOKORO YORI IDETE WARE WO KAZARU 十字御書 MUSHIMOCHI GOSHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく - Like iron drawn to a magnet or the reflection of the moon appearing in the water

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本文 諸天は法華経の行者 出来せば 磁石の鉄を吸うがごとく 月の水に遷るがごとく 須臾に来つて行者に代り 仏前の御誓を はたさせ給べし しょてんは ほけきょうのぎょうじゃ しゅったいせば じしゃくの てつをすうがごとく つきの みずにうつるがごとく しゅゆにきたって ぎょうじゃにかわり ぶつぜんの おんちかいを はたさせたもうべし 開目抄・下  かいもくしょう・げ [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (217頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 諸天善神は、法華経の行者が出来したならば、磁石が鉄を吸うように、月の影がそのまま水に映るように、 ただちに来って、かたく法華経の行者を守護し、行者に代わって難を受けもって、仏前の誓いを果たすべきである。 英語で御書 Gosho in English If a votary of the Lotus Sutra should appear, then, like iron drawn to a magnet or the reflection of the moon appearing in the water, they will instantly come forth to take on his sufferings for him and thereby fulfill the vow that they made in the presence of the Buddha. " The Opening of the Eyes " Part Two "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 261 in February, 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 諸天 は 法華経 の 行者 出来せば 磁石 の 鉄 を 吸う が ごとく 月 の 水 に 遷る が ごとく 須臾 に 来つて 行者 に 代り 仏前 の 御誓 を はたさせ 給べし SHOTEN WA HOKEKYO NO GYŌJA SHUT'TAI SEBA JISHAKU NO TETSU WO

元品の無明は第六天の魔王と顕われたり - The fundamental darkness manifests itself as the devil king of the sixth heaven.

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本文 法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶 備われ 元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ 元品の無明は第六天の魔王と顕われたり ほっけしゅう の こころ は いちねん さんぜん・しょうあく しょうぜん・みょうかく の くらい に なお そなわれ がんぽん の ほっしょう は ぼんてん・たいしゃく とう と あらわれ がんぽん の むみょう は だいろくてん の まおう と あらわれたり 治病大小権実違目 じびょうだいしょうごんじついもく (997頁) 弘安元年6月 (1278年) 通解(意訳) 日蓮仏教の根本である、一念三千の法門に人の心(境涯)の善悪を照らせば、善の心も悪の心も、本来人の心の本性に備わっているものである。そのため、仏の境涯を開いたとしても、心の本性が消える訳ではなく、心のあらゆる側面(一念三千)がそのまま備わっているのである。 この法理によって、善心によって開かれた法性には、梵天・帝釈天等の諸天善神の加護が顕れ、無明に陥った悪心には第六天の魔王が顕れるのである。 英語で御書 Gosho in English The heart of the Lotus school is the doctrine of three thousand realms in a single moment of life, which reveals that both good and evil are inherent even in those at the highest stage of perfect enlightenment. The fundamental nature of enlightenment manifests itself as Brahmā and Shakra, whereas the fundamental darkness manifests itself as the devil king of the sixth heaven. " The Treatment of Illness " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1113 in June, 1278.  [ --- ]

桜梅桃李 - The cherry, the plum, the peach, the damson

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本文 桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり おうばいとうり の ここ の とうたい を あらためず して むささんじん と かいけん すれば これ すなわち りょう の ぎ なり 御義口伝 おんぎくでん 無量義経六箇の大事 むりょうぎきょうろっかのだいじ 第二 量の字の事 だいにりょうのじのこと (784頁) 通解(意訳) 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの姿を改めずに、自分らしく、ありのままで、自己に秘められた仏性を開いていくことが、無量義の「量」の意義である。 「無量義」の大意 あらゆる仏法の最高峰である御本尊を根本とし、南無妙法蓮華経の題目で、宇宙の法則を自分の身心と一致させて、仏性という無限の可能性を開き出す。この妙法の力で、信心、生活、社会など、すべての場面で、自分の能力を最も自分らしく発揮していくこと。  ありのままの自分で輝く 私どもは『ありのまま』でいいのです。 凡夫そのままの『無作』でいくのです。 久遠の凡夫のまま『つくろわず、もとのまま』で、 自体顕照(じたいけんしょう・ありのままの姿を顕し照らしていくこと)していけばよい -池田大作 英語で御書 Gosho in English The cherry, the plum, the peach, the damson—in its own entity, without undergoing any change, possesses the eternally endowed three bodies. ==================================== The Immeasurable Meanings Sutra Six important points, Point Two, concerning the character ryō. " The Record of The Orally Transmitted Teachings "  Part 2, P 200 ==================================== [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal transl

法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず - It could never come about that the prayers of the practitioner of the Lotus Sutra would go unanswered.

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本文 大地は ささば はづるるとも 虚空を つなぐ者は ありとも・潮の みちひぬ事は ありとも日は西より出づるとも・ 法華経の行者の祈りの かなはぬ事は あるべからず だいち は ささば はずるる とも おおぞら を つなぐ もの は ありとも・しお の みちいぬ こと は ありとも ひ は にし より いづる とも・ ほけきょう の ぎょうじゃ の いのり の かなわぬ こと は ある べからず 祈祷抄 きとうしょう (1352頁) 文永9年 (1272年) 通解(意訳) 大地を刺して外れる事があっても、大空をつなぎ合わせる者があっても、 潮の満ち干きがなくなることがあっても、太陽が西の空から昇るようなことがあっても、 法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にない。 英語で御書 Gosho in English Though one might point at the earth and miss it, though one might bind up the sky, though the tides might cease to ebb and flow and the sun rise in the west, it could never come about that the prayers of the practitioner of the Lotus Sutra would go unanswered. " On Player "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 345 in 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 大地は ささば はづるる とも 虚空 を つなぐ 者 は あり とも・潮 の みちひぬ 事 は あり とも 日 は 西 より 出づる とも・ 法華経 の 行者 の 祈り の かなはぬ 事 は ある べからず DAICHI WA SASABA HAZURURU TOMO ŌZORA WO TSUNAGU MONO WA ARI TOMO・SHIO  NO MICHI-INU KOTO WA ARI TOMO HI

師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し - Those with the heart of a lion king are sure to attain Buddhahood. Like Nichiren, for example.

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本文 悪王の正法を破るに 邪法の僧等が方人をなして 智者を失はん時は 師子王の如くなる心をもてる者 必ず仏になるべし 例せば日蓮が如し これおごれるにはあらず 正法を惜む心の強盛なるべし おごれる者は必ず強敵に値て おそるる心出来するなり あくおうの しょうほうを やぶる に じゃほうの そうらが かたうどを なして ちしゃを うしなわんときは ししおうの ごとく なる こころを もてるもの かならず ほとけに なるべし れいせば にちれんが ごとし これ おごれるには あらず しょうほうを おしむ こころの ごうじょう なるべし おごれるものは かならず ごうてきに あいて おそるる こころ しゅったい するなり 佐渡御書 さどごしょ [富木殿等御返事] ときどのとうごへんじ (957頁) 文永9年3月 (1272年) 通解(意訳) 悪王が正法を滅亡させようとする時、悪僧たちが悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時には、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。 例えば日蓮のようにである。 このように言うのは、傲慢な心を起こしているからではない。ただ、正法が滅することを惜しむ心が強いからである。傲れる者は、悪王や悪僧などの強敵にあうと、必ず恐怖の心が生まれてくるものである。 英語で御書 Gosho in English When an evil ruler in consort with priests of erroneous teachings tries to destroy the correct teaching and do away with a man of wisdom, those with the heart of a lion king are sure to attain Buddhahood. Like Nichiren, for example. I say this not out of arrogance, but because I am deeply committed to the correct teaching.  An arrogant person will always be overcome with fear when meeting a strong en

合掌とは法華経の異名なり - Gasshō, or “pressing the palms together,” is another name for the Lotus Sutra

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本文 合掌とは法華経の異名なり 向仏(こうぶつ)とは法華経に値い奉ると云うなり 合掌は色法なり 向仏は心法なり、 色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍(かんぎ ゆやく)と説くなり がっしょうとはほけきょうのいみょうなりこうぶつとはほけきょうにあいたてまつるというなり がっしょうはしきほうなりこうぶつはしんぽうなり、 しきしんのにほうをみょうほうとかいごするをかんぎゆやくととくなり 御義口伝 おんぎくでん 譬喩品九箇の大事 ひゆぼんきゅうかのだいじ 第二 即起合掌の事  だいに そっきがっしょうのこと (722頁) 通解(意訳) 「合掌」とは法華経の異名である。「向仏」とは、妙法蓮華経にあいたてまつるということである。 合掌は色法(肉体・身心の変化の法)の姿であり、向仏とは信心であり、心法(心や精神の変化の法)である。 色心の二法を妙法蓮華経であると悟る事を、譬喩品の中で、釈尊の弟子である舎利弗が、喜びのあまり踊り出したと説くのである。 歓喜踊躍(歓喜のあまり身体は踊りだし、心はいきいきとしていて、その人の身心の生命が躍動する姿)とは、色法と心法がかけ離れたものではなく一体の姿(色心不二)なのであり、歓喜踊躍と説くのであり、この歓喜こそ法華経の真髄の妙法蓮華経と説くのである。 英語で御書 Gosho in English Gasshō [;合掌] , or “pressing the palms together,” is another name for the Lotus Sutra.  Kōbutsu [;向仏] , or “turning to face the Buddha,” means that one encounters and pays respect to the Lotus Sutra. Pressing the palms together is an element of the body. Turning to face the Buddha is an element of the mind. The passage describes how one dances with joy when one comes to the realization that the elements of